メイン

活動 アーカイブ

2006年07月19日

孤児院へ支援

7月15日、孤児院へ食料や衣類、本などの支援を行いました。
一生懸命学び、いきいきと遊ぶ子供たちを見ているだけで
こっちも元気になります。
割とニャフルル市に近いので、今後も植林に関する教育、実際に
木や野菜といった作物の育て方などの支援が行っていけるのではと思っています。

地域名:ライキピア県ニャフルル市
贈呈先団体:Mt.Moriah Children Home (マウント モリア 孤児院)
贈呈先責任者:ガキニャ氏
人数: 男の子6人 女の子5人

all.jpg

pastor.jpg

boy.jpg

girl.jpg

2008年02月17日

癒されない傷と埋められない溝

716048225_152s.jpg 716048225_55s.jpg 716048225_214s.jpg

ネットの状態が悪く、連絡が遅れましたことお詫び申し上げます。
私(とお金)をご心配してくださった皆様、申し訳ありません。
残念ながら私は無事です。
この一ヶ月、より細かい調査と毛布や生活用品の支援を行っていました。
とりあえず近況報告を載せます。
支援に関する詳細報告を次回に記載します。もうしばらくお待ちくださいませ。


昨年12月末に行われた大統領選挙。
その後、再選した大統領と、野党側対立候補との争いが生じ、
それぞれが属する部族間の対立を引き起こしました。
その結果、各地で暴動が起こり、大勢の避難民が生じました。
比較的安全な地域もしくは、その部族にとって安全といわれる地域では
難民キャンプが広がり、たちまち食糧や物資の不足といった事態を招きました。

現在暴動は沈静化しつつあります。しかし、避難してきた人々のほとんどはその恐怖から
元の場所に帰ることはできず、避難した場所、もしくは親類を頼って
新しくやり直そうと考えています。
家を焼かれ、なにも持たずに逃げてきた彼らには、すでに帰る理由などないのです。

echoでは近辺の避難民の調査、それに伴って毛布、生活用品の支援を行ってきました。
現在大所帯のキャンプの数は減り、人々は賃貸、仮説住居などに移りつつあります。
しかし、住む場所が変わっても、十分な食糧を得ることができる保証はなく、ほとんどが
キャンプにいた頃とさほど変わらない生活をしています。
避難民の半数は18歳以下の子供です。

彼らが必要としているのは食糧、そして仕事です。
そこで、単なる食糧、物資による支援から、次の段階に移行しようと考えています。
MAISHA IENDELEE
スワヒリ語で、人生を続けよう、という意味です。
食糧や物資支援を行いながら、各人が現金収入を得られるようにサポートする
体制を整えます。様々な方法がありますが、具体的な例をあげると

農業支援(農地の借地代と毎月の給料を支援)
技術職支援(ミシン、大工道具といった手に職を持つ人々がそれぞれの店を開くための支援)
バイク・自転車タクシー支援(小型単車、自転車の支援)
ケニア民芸品作成支援(民芸品を作成、販売する支援)
一輪車路上販売支援(一輪車の贈呈)

皆さんから贈っていただいた支援金を元に、これらをグループ単位で行い、少しずつ現金収入を得ると共に、
将来への不安を少しでも解消し、希望を持てるように、支援を行いたいと思います。

調査を行った段階での近隣に住む避難民の数はおおよそ1500人です。

現在、元国連事務総長コフィ・アナン氏の仲介の元、対立していた派閥同士での話し合いが続けられ、
なんとか仲直りをしようと試みています。本日15日、その調停内容の一部が発表される予定です。
内容によってはまた暴動が再発する恐れがあり、注意するようにと日本大使館から連絡がきました。
しかしながら、それよりも恐ろしいのは、暴動は、すでに各政党リーダーの手をはなれて
深刻な部族間対立に発展してしまった感があるということです。
各政党とリーダーがもし和解したとしても、人々の心には、深い、とても深い傷が残りました。
そして部族間の溝はさらに深まってしまったことはいうまでもありません。
この一ヶ月の混乱で人々が負った傷と溝が修復されるには何十年、またそれ以上の年月が必要でしょう。
ただでさえ楽ではなかった暮らしが、さらに難しくなりました。
しかしながらケニア人には持ち前の明るさ、前向きさがあります。
暗い方向へ進むのではなく、この困難を乗り越え、さらに糧として再出発できますように。
将来のケニアが前よりもずっと良い国になりますように。
そのためのお手伝いをさせてもらいたいと、そう願っています。


写真1枚目はカルガで支援を行った物品です。一家族に対し、毛布人数分、水用タンク、コップ、皿、鍋、ヤカン、パンガ、七輪などをセットにしたもの。

2枚目はニャフルル市内にある福祉会館内のキャンプへ毛布を30枚届けた時のものです。

3枚目はニャフルル近くのスラム、マングオという場所で各家庭で聞き取り調査を行っている時の80歳のおばあちゃんです。彼女は35歳の娘、さらにその子供や孫3人と避難しています。

3588558_2049715367s.jpg 3588558_2502453342s.jpg

2008年03月05日

お礼とお知らせ

大変遅くなって申し訳ありません。

今回の暴動後の国内避難民支援基金、マイシャ イエンデレー プロジェクトに
ご協力いただいた皆様に厚くお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
前回の日記にもあるように、今後も継続的な支援を行っていく予定です。

ニャフルル周辺の状況をお知らせいたします。

各キャンプ地(教会など)では、できるだけ早期に避難民がそれぞれの家族単位で生活できる場所を
提供することに重点を置いており、現在集団で生活しているのはニャフルルの福祉会館のみです。
提供される場所は、借家(アパート)、住居内の空き部屋などで、大家さんや住民の善意に
よるところが大きく、食事についても家主からも支援を受ける場合がほとんどです。
もしくは知人や親類を頼っていく人も少なくありません。
避難民の99%はキクユ人です。

ニャフルル市内:
登録された避難民の数は1121人、うち300人ほどが市の福祉会館内でキャンプ生活をしています。
会館には避難民対策用の食糧、衣類などがストックされています。
会館外の人々は週に数回、会館で食糧を配給され、それぞれの住居で生活します。
会館自体、大きなキリスト教会に貸し出されているので、物資は豊富に見られ、
また、世話をするスタッフが常駐しています。
子供達は近くの小学校(8年制)へ通うことを許可され、ユニフォームは無いけれども
とりあえず勉強を続けられることに喜んでいます。
高校生(4年制)は、学費や食費が払えず、通えないケースもあります。
小学校には政府の方針で学費がありません。

マングオ(ニャフルルから5キロ、スラム地区)
およそ300人ほどが避難していると考えられます。最初は教会で生活していましたが
それぞれ住む場所を確保することができました。
子供達は近くの学校か市内の学校へ通っています。

カルガ(ニャフルルから12キロ)
およそ100名が最初の暴動で避難。教会やホテルで生活していましたが、現在は
すべて住居を確保されました。

マイロイネ(ニャフルルから8キロ)
PCEA、7thDAY各教会に約300人ずつ住んでいましたが、現在は皆それぞれ
住居を提供され、各地方へ移動しました。カソグへ移動した人々もいます。
教会内には残っていません。

カソグ(ニャフルルから36キロ)
かなりの田舎です。
およそ1200人の避難民が生活しています。上記場所は全て赤十字や大きな教会などから
食糧などの支援を受けることができましたが、ここには大きな教会もなく、
赤十字も通っていません。舗装道路から12キロほど悪路を入ったところに
位置することもその理由の一つです。地域のチーフと呼ばれる長がなんとか
食糧などを工面してきましたが、それも先週で底をつきました。
このあたりでは未だにちゃんとした住居を得られず、軒下などで寝起きしている人も
存在し、毛布や衣類なども大変不足しています。病院も遠く、不自由しています。
エンブ、アフリカ児童教育基金の会から支援を受け、来週ここに食糧を支援する予定です。
また、同所のケニア人スタッフへ衣類の提供を呼びかけてもらいました。
私達からは毛布を用意しようと思います。

アナン氏の仲裁をもって、各政党の対立にひとまずピリオドが打たれました。
あくまでも政治的な主張に関する妥協案に同意したというだけですけど、
大切な一歩であることは確かです。
各地での暴動も減少し、外務省の危険レベルも一部下げられました。
少しずつ落ち着きを取り戻しているといってよいと思いますが、
まだ非常に薄い氷の上にいるような感じです。
そして大きな大きな問題を抱えてしまいました。

大統領は皆それぞれの場所へ帰れ、もう安全だから、という。
一体何を根拠にそんなことをおっしゃりなさりやがるんだろう、と思う。
今現在でも逆に逃げてくる人、避難する人々がいるというのに。
もちろん戻ることができれば恐らくベストだ。
以前とまったく同じように暮らせるという保障があるのなら。
だけど心情的にも今すぐ帰るのは不可能だ。
5年後にまた選挙があるんだ。
というか今まで、西部では過去の選挙の度に衝突が起こったりしている。
そしてその度にその地を去り、別の土地でやり直そうと引っ越す人々がいる。
今のように避難民という呼び方はされないけれども。

手を差し伸べることからはじめよう。

2008年03月17日

地元紙に掲載

745320931_118s.jpg 745320931_206s.jpg 745320931_107s.jpg

ニャフルルの地域情報誌に私達の活動が掲載されました。

以下、本文の適当な翻訳です。

NGO ECHO 国内避難者への支援
ニャフルルのNGO ECHOは選挙後の暴動による被害者、避難民に対する支援の第一線で活動してきた。
echoスタッフのベン、ムホロによると、echoはリフトバレー、ニャンザ州からニャフルル近辺に避難してきた人々を支援してきた。
echoの責任者である佐藤(日本人)は、カルガに住む複数の避難家族にジコ(七輪のようなもの)、20リットルのポリタンク、毛布、食器類など、様々な品を贈呈した。ダラグアでは避難者の職業支援のために建物を借り、住居、美容院、理髪店、洋裁、木工などに仕切られる予定である。ベン、ムホロはechoが今後どのように支援を行っていくか、より詳細にわたって説明し、そのためにニャンダルア地区での避難者に関する情報を集めている。
避難者はナクル、コル、ロンディアニ、キスムなど様々な土地から来ている。
echoはエンブの天理教から派生し、後者はまたシャマタへの巡回診療と食糧支援を計画している。
一方で・・・・(以降、別のNGOの活動について記述)

そして13日、カニャギア地域で食糧などの贈呈を行いました。
※前回カソグと書いだ場所。正確にはこの地域名でした。
この時の支援物資はエンブのアフリカ児童教育基金の会からの協力です。
日本の支援者の皆様、そしてケニアのエンブの教会につながる皆様に
心からお礼申し上げます。
最後の写真が贈呈時のものです。

この日はおよそ370世帯の人々が集まりました。
物資はトウモロコシ 2.7トン、豆 450キロ、油、塩、石鹸、洗剤、衣類です。
さらに医者1名と薬品。これが大変ありがたかったです。
カニャギアは病院からとても遠いため、食糧よりも長蛇の列となりました。
避難者ではない地元の人も医者が来ていると聞いて列に加わっていたようです。
診療を終えた人から順におさづけのお取次ぎをさせていただきました。
スタッフ全員、大変疲れましたが、本当に充実した一日で、
あげた側ももらった側もみんな喜べた日でした。

地域のチーフから感謝状をいただきました。

でも彼らの困難はまだまだ多く、可能であれば再びなにかしらの支援のために
訪れたいと思います。この日集まったのはこの地域の避難者全体のおよそ半分の人々でした。

この贈呈に関しては次回詳細を追記したいと思います。

2008年10月12日

E.C.H.O オフィス

20081008392.jpg

日本から来た方々をエコーの事務所に案内。
普段の活動や、以前掲載された新聞記事などを説明しました。

続きを読む "E.C.H.O オフィス" »

2011年03月18日

苗木センター 続報

3月から始まった苗木センター。
現在もサッカーチームの子を中心に、頑張ってくれています。

途中2度、森林局に属する警察に邪魔というか嫌がらせというかいちゃもんをつけられたりしましたが
こちらは悪いことなどこれっぽっちもしてないので、丁重にお帰り願いました。
こういったことはケニアでは良くあることなので気にしないことにします。

さて、最初の日記では一週間で種まきとか言ってましたが、甘かったです。
2週間以上経った今、まだ始まっていません。

進捗状況を写真でお知らせします。
高低差があるので、上下2段のレベルにし、スロープを作りました。

上側から

IMG_2288 これが

SANY0161こうなって

 IMG_2432 こうなった

下側から

IMG_2290これも

IMG_2425こうなって

ななめから

IMG_2285これが

IMG_2430  こうなった

近いうちに苗床を作り、種を撒くことができそうです。

2011年03月24日

苗木センター 続報

苗木センターでは、早速、サイプラスという木の苗木の準備を始めました。

今回はまず、芽が出た苗床を購入し、一本ずつ手作業で袋に分けていきます。

一方では種を購入して、自分たちで用意した苗床に蒔き、世話をします。

始まったばかりなので、これらを同時進行で行います。

苗床と個別の袋には、森から持ってきた土に有機肥料を混ぜてあります。

IMG_2510

IMG_2511

IMG_2485

2011年04月05日

キッズサポーター

キッズサポーター制度・NPOマムからの支援によって、モーゼス・ムトゥーリ君が学校に通えるようになりました。

HERO OF THE NATION小学校の6年生になりました。

IMG_20110401_173803-2  IMG_20110401_174032

モーゼスは、西部のルヤ族の父とキクユ族の母親の間に産まれ、ケニア西部の町、ムミアスで暮らしていました。この街ではキクユ族は少数派です。2007年(前回の大統領選挙の年)、父親の体の具合が悪く、母親がジャガイモを売って生計を立てていました。

その12月、大統領選挙が行われ、その後、選挙に落選した西部部族がサポートしている対立候補が不正を訴え、暴動が起き、それがさらに部族間対立にまで発展し、ムミアスでも暴動、略奪、迫害などがありました。

家財道具を略奪され、住むとこを追われた家族は、町外れの父親の実家へ避難。時を同じくして父親の容態が悪化、病院に入院することになり、心臟部へ悪性腫瘍が転移したとの診断がおりました。

2008年7月、多くの爪あとを残しつつも暴動は収束に向かいます。しかしながら、地方都市でのいざこざは依然として続き、ムミアスでもそれは同じでした。当時、父親は「子どもの顔が見たい」と病院を出、実家に帰っていました。しかし夜半過ぎ、家の外での異変を感じます、人々の怒号、叫び声、悲鳴・・・。それらが続いて父親は不安、恐れから容態を悪化させ、翌日再入院します。ひとまず小康状態を取り戻したものの予断を許さない状況から、家族はまた次の日に見舞いに行くことにしました。しかしそれが最後となってしまいました。

父親を亡くした家族は身の危険を感じ、ムミアスを出て、母親の実家であるニャフルルに引越しました。仕事をさがすため母親は親類を頼ってナクルへ。子供達はニャフルルの祖父母の元に残ることになりました。かといって年老いた祖父と祖母に子供たちを養っていくだけの蓄えは無く、クリスチャン系孤児院の世話になったりして学校に通わせていました。しかしどこも状況は厳しく、母親のいるモーゼスの支援は打ち切られてしまいます。

サッカーが好きなモーゼスはグラウンドに来て FCグリフォンの練習に参加するようになり、そこではじめて事情が明らかになりました。

NPOマムの鶴巻氏がケニアを訪れた際にその話題になり、打ち合わせの末、マムからの支援が決まりました。

先日、学期休みで早速グラウンドに来ていました。
話を聞くと、中間テスト15位→期末テスト10位にアップ!頑張ったね。将来の夢は飛行機のパイロットになって、日本に行くことだそうです。頑張れー!

来週モーガンも帰ってきます。
二人とも似たようなハーフだから仲良くなれるかな。

メニュー

ばんなぐろ
トップページ

近ごろの会長さん

謝謝台湾

@KENYA

@北極 -web-

About 活動

ブログ「@KENYA」のカテゴリ「活動」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリは家のことです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。