2019年07月07日

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詰所にて、開催。第1回目。

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これから、買いを重ねていきます。

2019年05月05日

天理教事典より

元始まりの天体見立て
くにとこたちのみこと 天では、月様。北。
をもたりのみこと   天では、日様。南。
くにさづちのみこと  天では、源助星。東南(巽)。この世は、神のからだ、ゆえに、南の空に輝く星はみな「くにさづちのみこと」にゆかりのほし。
           現在、南の空の明るい順に、
           ①シリウス、天狼星、(青白色)。晩秋から冬にかけて、
            南の空に明るく輝く銀色の星。
           ②カノープス、南極老人星、(橙黄色)。1,2月の冬空に、地平線すれすれに上がって、間もなく没してしまう。
           ③フォーマルハゥト、北落師門。(白色)。中秋の候、南の空を賑わす星。「岸田定雄によると、三輪町付近では西南の山のすぐうえに出る大きな星をゲンスケボシといい、天候の荒れる前に出る、とか、二、三日すると雨が降るとか言う。これもカノープスであろう。」野尻抱影の「日本の星」による。
            また、新藤正雄の「大和方言集」には、大和の三輪町でいうゲンスケボシは「西南の山の真上に出る一つの星」とある。
            また、梶本楢治郎「教祖様の思ひ出」(復元創刊号)には、「源助星」は、辰巳に見える銀光の星さんや」とある。
月よみのみこと    天では、破軍星。西北(乾)。中国では、北斗七星の杓の端、いわゆる剣先の星。凶の星。これに逆らって戦争したり、訴訟を起こした者は必ず敗れると言われる。
            「こふきほん」では、秋の宵に乾(西北)に高く懸って。星図では、大熊座の第7星(エータ)にあたり、地球から約210光年、1、87等星である。
            諸井政一「正文遺韻」に、「破軍星は、月よみの命さまのほんしんなり。つきよみの命さまのお姿は、しゃち、鯉のこせたも同じこと。勢いつよく、へんにしゃくばるもの、のぼるが性質であるからして、辰巳のかたかめの口より、、、水を吹く、その吹く水によりて、のぼると云う理をもって、外々の星とは違い、戌亥の方より、丑寅へ、それより辰巳とおまはりになり給ふなり」
くもよみのみこと   天では、朝の明星。東。宵の明神の星と、朝明神の星。
かしこねのみこと   天では、坤の方に集まる星。西南。
たいしょく天のみこと  天では、艮の方に集まる星。東北。
をふとのべのみこと   天では、宵の明星、西。

これからは、元始まりのお話は。

2019年04月04日

奇跡。

生き返った命。
平成16年1月27日から2月10日まで、NPO ACEFが活動をしているエンブ市を訪問してきました。
ここには、4男洋司が1998年からお世話になっていました。
約20時間を超すフライトで28日到着。その夜は、ナイロビのホテルで宿泊でした。翌29日から、ほぼ国の中央にそびえる、ケニア山の周囲を一周するように各地を訪れ、それぞれの施設を視察し2月5日エンブへ帰ってきました。
2月9日、ナイロビを出発、ドバイを経由して、2月10日、大阪関西空港へ。すぐ札幌行に乗り継ぎ、千歳空港へは20時25分到着した。札幌に1泊、教会へ11日帰宅をしました。ところが、とんでもないことが起こっていました。この2日前、信者さんのMさんが、風邪薬のアナフラキシー ショックで、倒れ救急で救命処置を受けたのに、40分もの間心肺停止。もはや回復できないと家族は医師に告げられました。奥さんはじめ家族は身動きしない体にとりすがり、「お父さん、お父さんと」泣き叫ぶと、なんとパッと目が開きました。医師に告げるとすぐに様々な装置を付け処置をすると心臓が動き、呼吸を始めたのです。ただちに集中治療室に運びあらゆる手立てを加えると、生命の営みが再び始まりました。私は、すぐに駆けつけました。ベッドに寝ている彼のそばに行くと、薄く目を開き、思いもかけない言葉を吐きました。「会長、ケニアに、道はついたんかい」と弱弱しい声で言うのです。この緊迫している状況での言葉に、「うん、ケニアでは、立派な神殿もでき、素晴らしいおつとめがケニア人の手でつとめられているよ」と告げると、「うーん」と一言いって、また、眠りに入っていきました。それまで、死にゆく苦しみに悶える姿は、たくさん見てきましたが、今ここでは、まさに、細胞の隅々に血流がいきわたり、蘇生していく悶えに苦しむ姿があり、初めて目にするものでした。教会に帰って、ご神前にぬかずき、たすけて頂いたお礼と共に、これからは、しっかりとケニアへの御用をする洋司を支えて、通らせていただきますと、お誓いを致しました。親神様、おやさまにお前しっかりやれと、背中を強く押されたように感じたのでした。勿論その方は今も元気に教会の中心になって、よき理解者として、おはたらき下さっています。しばらくして、落ち着いて旅をふりかえっていたら、はっとあることを思い出したのです。それはナイロビに着いた、1月28日ホテルで寝たその夜夢を見たのです。日本に帰って誰かに一所懸命ケニアの話をしているのです。翌朝、同行の人たちに、夕べ日本に帰った夢を見たと話したら、「来たばっかりなのに、もう帰ったんかい」と笑われました。それがよく考えてみると、その話している相手は、Mさんだったのでした。

2018年06月27日

台湾の圭司が博士号を授与。

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私も着せられました。

2017年10月23日

北極2017,10,16発行第515号

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2011年03月12日

平成23年2月号

厳寒に教祖への思い込め
——春季大祭

 国内他地域に比べ平年より穏やかな気候で始まった本年でしたが、すぐに北海道らしい厳寒期が訪れるなか、春季大祭が勤められました。
 会長の祭文奏上に続いて、座りづとめ・十二下りのてをどりが陽気に勤められた後、会長が神殿講話を務めました。

祭典講話

 この月は、春の大祭を勤めさせて頂きました。言うまでもなく、おぢばでは、教祖が、おつとめを急き込み、二十五年先の命を縮めてまで世界たすけを急き込まれ、現身をお隠しなされたのを祈念して勤められます。
おふでさきは、明治二年に第一号を書き始められて、明治十五年に第十七号もって書き終えられました。その明治十五年から、おやさまの監獄署への御苦労が始まりました。明治十五年十月二十九日から十一月九日の十二日間、明治十七年三月二十四日から四月五日の十二日間、さらに、八月十八日から三十日の十二日間。都合三回となります。そして、陰暦明治二十年正月二十六日を迎えることになります。
 そして梅谷大教会が梅谷村からこの監獄署に隣接する地に明治三十一年十二月六日に移転となりました。
 有難い事に、この、外に二つと無い地に神殿を建築するという御用をさせて頂ける喜びは何ものにも代えられません。そこで、梅谷部内一同、おふでさきを、全ての教会は、たとえ一枚でも書いてそれを集めて一冊のおふでさきに製本して、来たる十一月三日の創立百二十周年記念祭、神殿落成奉告祭に、御神前にお供えさせていただくことにしました。神殿建築とおふでさきの墨書と、毎月二十六日早朝神殿回廊ふきひのきしん、これをもって一手一つの心をつくり上げていきたいと思います。

2008年11月05日

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2008年08月16日

8月16日発行

夏本番を迎えるなか陽気に

――七月月次祭

 北海道にも真夏の暑さが近づいてきた中、七月月次祭が勤められました。
 会長の祭文奏上に続き、座りづとめ・てをどりが陽気に勤められ、最後に会長が神殿講話を務めました。

祭典講話

 この月は、一年の真ん中の元日と言うことで中元祭をつとめさせて頂きました。早いものでもう半年が過ぎ去ってしまいました。
 さて、四月から修養科で勉強していましたケニアの五名が無事修了しました。二〇日には、めでたくおさづけの理を拝戴しました。その日は朝から緊張ぎみで、今まで着た事のない着物(おつとめ着)に身をつつみ、足元を気にしながら教祖殿に集合、大勢の人と共に戴きました。
それぞれは、遠い国から、家族との長い別れに思いを残し、初めての日本へ、初めてのジェット機で、不安を抱きながらも、只ひたすら親神様、おやさまを頼りにやってきて、その最大の目的であるおさづけを戴いた喜びは何物にも変えがたく、感激の涙で顔をぐしゃぐしゃにしていました。
さっそく、詰所において身上の人々にお取次ぎをして、確かなてごたえを感じて、よろこびも新たにしていました。ケニアに帰ってからは、たすけ一条の毎日が待っています。きっと素晴らしい働きで真実の御守護をいただかれることだと思います

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満席を戴く

2008年07月18日

平成20年6月月次祭

今月発行の「北極」青年会梅谷分会の巡回を受け

――六月月次祭

 夏が近づくにつれラベンダーなどの花々が鮮やかに彩り始める中、六月の月次祭が勤められました。

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 この月は青年会梅谷分会の四名が巡回し参拝。座りづとめ、てをどりが陽気に勤められ、青年会の代表が青年会創立九十周年、ひのきしん隊、梅谷大教会神殿普請への協力を呼びかけました。最後に会長が神殿講話を務めました。

祭典講話

 今ケニアから修養科に入っている一人、ジルという方の生後三カ月の娘さんが五月三十日出直しました。生まれてわずか一カ月の時、別れてきたのでした。その悲しみようは傍目にも辛いものがありました。なんとか立ち直って頂こうと周囲の皆さんで努力をしています。
私も何かしなければと思い、お手紙を出しました。以前、道友社発行の「母讃歌」に記載されたのでご存知の方もおるかと思いますが、私の妹二人が出直しています。一人は七歳で、二年後には四歳の子でした。二人目のときなど、父である会長はおぢばなので帰れません。葬儀をだすお金が無く困っていましたら、住み込みさんの一人が自分の時計を質屋に入れてそれを使わせてもらいました。教会のご用、大勢の住み込みさんのお世話、子育て、稲作農業と一日中休む間もない難儀な中、このような苦労を乗り越えいつもニコニコと明るく誠真実を込めてつとめていました。
母の脳裏には、きっとおやさまの道すがらが絶えずあったのだと思います。それは、次女おやす様四歳、四女おつね様三歳で出直すという節でした。いかに親神様の思召しとはいえ私たち人間からすると、並々ならぬご苦労としか思えない道中で、このような中も、いつも明るく陽気にお通り下さったればこそ、あとに続く私たちもくじけることなく、わずかづつでもその歩みをたどることができるのです。
このようなことを思い出しながら、ジルさんには、きっと素晴らしいおたすけのできるよふぼくに成人して頂きたいとお祈りしています。

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